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ドイツ人時計師、フェリペ・ピクリク氏が“ハンドメイド”について真剣に考える

この28歳の時計職人にとって、すべてハンドメイドで時計をつくることが個人的なゴールではない。現代的な時計の作り方を、可能な限り純粋な方法でほかの人に教える機会も提供したいと考えている。

オリジン・ストーリー

フェリペ・ピクリク氏は、幼い頃から時計職人になる運命にあったようだ。

オーデマピゲ スーパーコピー 新作 ロイヤル オーク オフショア クロノグラフ 26237ST.OO.1000ST.01

誕生から25周年を迎えた「ロイヤル オーク オフショア」の記念モデル。ダイアルはキメが細かなパターンを特徴とする伝統的なプチタペストリーを採用。このダイアルを含め、リューズやプッシュボタンなどにブルーがあしらわれており、精悍かつ爽やかな仕上がりとなっている。

彼は子どもの頃から、機械がどのような仕組みで動いているのかを理解することに、飽くなき好奇心を抱いていた。そして時計づくりのアイデアとロマン、つまり機械的で小さいものを手で作るという本質と、それを実践する人たちが年々少なくなっている芸術であるという知識は、揺らぐことなくピクリク氏の夢と結びつく。

ただ時計づくりが、彼が純粋に描いていた理想からどれほど進化しているのか、知る由もなかった。

「私はグラスヒュッテで時計づくりの見習いを始めました。いつかA.ランゲ&ゾーネで働くことを目標にしており、これは当然のことだと思っていたんです。なぜなら当時は、すべてがそこで手作りされていると思ったからです」と、ピクリク氏は少し苦笑いを浮かべながら話す。「しかし私は子どもで、時計づくりについて非常にロマンチックに考えていました。それが何を意味するのか、これらの会社がどのように機能しているのかを本当に知らなかったのです」

「子どもの頃から時計づくりの定義は、ただ時計をつくりあげるということであり、仕上げや組み立てではないと思っていました。そのため私は、ただ完成させるだけでなく、すべてのパーツの作り方を学び、自分が本当に何かをつくり上げたということを実感するのが目標でした」

ピクリク氏はまだ28歳でありながら、業界にいる多くのベテランに匹敵する時計づくりの経歴を持っていることを鑑みると、よく知らなかった昔のことや、時計学校時代で過ごした時間、さらには見習い期間についての話を聞くのはおもしろかった。10年前、18歳で時計学校に入ったピクリク氏はステファン・クドケ氏に弟子入りし、ドイツの偉人のひとりである彼から複雑な仕上げを学んだ。

「時計学校の先生方が、私が去ったあともいろいろと教えてくれたりして、自分の成長を助けてくれたのは幸いでした。1年後、私は最初のスケルトンウォッチを完成させました。ただ自分の時計をイチから作るとなると、まだまだ勉強が足りないなと痛感しました。しかしその方法について、すべての知識を持っている人や先生を見つけることは難しいですし、その知識を持っている時計職人がいたとしても、必ずしもそれを共有したがりません。本のなかにもときどき間違いがあり、しかもそれは単純なミスではなく、人を混乱させる意図的なミスなのです。それが悔しかったですね」

1年後、ピクリク氏はドレスデンにあるロルフ・ラング氏のもとで働き、プロトタイピング(基本的なモデルや設計をつくること)や部品の作り方を学んでいた。そのあいだにも彼は本を集めながらお金を貯めて、やがて自身のライフスタイルやペースが合うベルリンで、自分の工房を持つようになる。またオーデマ ピゲ、パテック フィリップ、ロレックスといったブランドの、ヴィンテージモデルや現行の時計の修理に携わる機会も得る。こうしたキャリア初期での修理業によりピクリク氏は軌道に乗ることができ、そしてさまざまなスタイルやテクニックに触れることで、将来生み出される時計に影響を与え、また時計職人としての自分を知るための試みにもつながってきたのだという。

その結果誕生したのが、ピクリク氏のファーストコレクション、“プリウス コレクション”である。2017年に発売した同コレクションは、当時23歳だった彼が自身の才能と道具を駆使しながら、リビングルームの工房でエボーシュのムーブメントを改造してつくった、5本限定のスケルトンモデルである。その時点でヤスリがけ、研磨、切削加工など、ムーブメントのほとんどを自社で手作業で行い、ピクリク氏による最高級ムーブメントの調整(レグラージュ)は、8ポジションでの“ダイナミックバランス”によって行うという、極めて高い完成度を実現した。

そう、まだ完全ハンドメイドという最終目標には至らなかったのだ。しかしその時点で、フェリペ・ピクリク氏の可能性が無限にひろがっていることは明らかだったはずだ。


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